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かんざしの起源やべっ甲の歴史などについて寄稿させていただきました|中央区文化・国際交流振興会だより№74・Dec.2020

今までに中央区の伝統文化にちなんだ企画において、2度講演をさせて頂く機会を頂きました。そうしたことからこの度、中央区の機関誌のひとつ、「中央区文化・国際交流振興会だより」(表紙は銀座にちなんだ交詢社の挿絵)に、和装(伝統工芸)、かんざし、そしてべっ甲について寄稿させて頂く機会を頂戴いたしました。本日はその機関誌をご紹介させていただきます。

もともと文才がないうえに、文字数や〆切などの制約がある中、苦心して書かせていただきました。もしかすると、読みづらい、分かりにくいところもあるかと存じますが、ぜひ一度、お目を通していただければ嬉しく思います。

なお、掲載させていただいた画像を拡大してもお読みいただけると思いますが、一部本文のみ抜粋してテキスト化しております(続きを読むをクリック)。少々長文になりますが、どちらからでも結構ですので最後までご一読していただけましたら幸いです。

 

また本機関誌は非売品ですが、店頭にまだ若干数置いてございます。ご興味のある方には無償にてお渡ししておりますので、どうぞお気軽にご来店のうえ、お尋ねください。(数がなくなり次第配布を終了させていただきます。)

 

中央区文化・国際交流振興会だより№74・December 2020中央区文化・国際交流振興会だより№74・December 2020

中央区文化・国際交流振興会だより№74・December 2020 中央区文化・国際交流振興会だより№74・December 2020

 

「江戸べっ甲と粋な和装小物の魅力」/銀座かなめ屋|まちかど展示館で学ぶ「人に話したくなる!中央区の歴史文化と技」全2回|令和2年度」2020/09掲載

中央区まちかど展示館|公式TV、YouTube「こんにちは 中央区です」に出演させて頂きました。」2019/07掲載

和装からみる「江戸の粋」YouTube動画|和装の伝統文化をささえる~銀座いせよし、銀座かなめ屋」2018/09掲載

 

中央区文化・国際交流振興会だより№74・December 2020

 

中央区文化・国際交流振興会だより№74・December 2020

《以下本文のみ抜粋》↓

キモノと和装小物

コロナ禍前、銀座に多く訪れていた外国人観光客が弊店に辿り着き、よくこんなことを尋ねられました。『なぜ日本を代表する商業地GINZAに、こうした日本的なSHOPがないの?メインストリートを歩いていても、世界中どこにでもあるブランドショップばかり。あなただってそうでしょう?異国の地を訪れたら、その国の文化が垣間見られるショップを訪れたり伝統に触れたりしたいでしょう?』

よく私の父が、自国の民族衣装を自分ひとりで着ることが出来ない国は、世界的に見ても少数だと嘆いています。キモノはいつの間にか日常着から、一生のうちに数回、七五三や成人式、結婚式などの儀式で着る「特別な衣裳」となってしまいました。当然これでは、自分でキモノを着られるようになる筈がありません。

さらに近年では、そうしたキモノは購入ではなくレンタルが主流になり、あわせて和装肌着から草履、バッグ、帯締め、帯揚げ、末広、かんざしなどの装身具一式に至るまでレンタル。キモノや帯の年間購入数は1975年前後をピークに、2013年ではその 1/6 まで落ち込み、今日に至るまで減少し続けています。

これが今の和装の現状、ひいては日本の伝統文化、工芸を取り巻く大変厳しい現状を物語っています。当然購入する機会が減れば弊社のような専門店は減り、またモノが動かなければモノづくりは必然的に停止します。その結果そうしたモノ作りに携わる企業や職人たちも減少の一途を辿っています。

如何でしょう?今の時代、語学力もパソコンも大切ですが、せめて浴衣ぐらい自分一人で着られるよう義務教育の過程に着付けの授業を取り入れることは。

 

かんざしの歴史

日本におけるかんざしの始まりは、縄文時代まで遡ります。その頃の古代日本では、一本の細い棒に呪力が宿ると信じられており、それを髪に挿すことで霊力を高め、魔を払うことができると考えられていたと言われています。

古(いにしえ)の時代、巫(ふ/かんなぎ)/巫覡(ふげき)(神を祀り神に仕え、神意を世俗の人々に伝えることを役割とする人々)などが祭祀(さいし/儀式)の際に、髪に挿した一本の木をアンテナの如く用いて周囲の精霊を呼び集め、自身の霊力を高めて様々な儀式に臨んでいたのでしょう。

日本語の「かんざし」の語源として、「髪挿し」(かみさし)。古の人々が神を招く際に頭に草花を飾ったことが起源であるという説があります。

 

奈良時代に入り中国大陸からの文化、特に唐の時代の大陸様式(文化)が流入、強く影響を及ぼし服装や飾りにも次第に反映されていきました。

しかし、平安時代に入りかんざしは受難のときを迎えます。女性はみな自然の垂髪(すべらかし)にし、黒髪そのものの美しさを求め髪に装身具を飾ることはなくなりました。

安土桃山時代から江戸時代初期、髪型の変化と共に再びかんざしにも脚光が集まり始め、江戸時代中期に入り髪型のさらなる変化と共に、かんざしの形状も多種多様化が一気に進み、現代でも目にすることが出来る、玉かんざし、平打ち、びらかんざしなどが生まれたと言われています。…

 

 

中央区文化・国際交流振興会だより№74・December 2020

 

素材も木製のものから、象牙、馬爪(ばず)、鯨、動物の骨、ガラス、ごく僅かながらべっ甲などバラエティーに富み、装飾技法も、漆、蒔絵(まきえ)、螺鈿(らでん)、象嵌(ぞうがん)など様々な技法が施されるようになりました。

1687年ごろから流行しだしたとされるべっ甲の櫛も大変高価であったことから、封権社
会の時代を反映して、まだごく一部の上流階級(武家階級)のみが許されたと言われてい
ます。

最高級の遊女である太夫(たゆう)クラスでは、べっ甲製の櫛3枚に、簪、笄(こうがい)
をあわせて20本ものかんざしを挿し、「首から上の価値は家一軒」などと言われ、現代でもわずかに残る総白べっ甲製の花嫁用かんざし一揃えともなると、蔵がひとつ建つと言われています。

江戸時代後期に入り戦もなく太平の世が長く続いていたころ、商業中心の世の中になり商家は富み、庶民でも様々な娯楽品を手に入れるようになります。その結果べっ甲製の櫛やかんざしを髪に飾る女性も徐々に増えていき、べっ甲の加工技術が最も開花した時代と言われています。

明治以降、洋髪の流行から簪も西洋の形のものへと変化。現在多く目にする2本足の三味線のバチのような形状をしたかんざしは、西洋風のものがベースになっています。

 

べっ甲とは

べっ甲とはウミガメの一種、玳瑁(たいまい/現在はワシントン条約により国際取引が制限)の甲羅を材料とする天然素材です。大西洋、カリブ海(キューバ)、インド洋の赤道付近に多く生息。近年は温暖化の影響もあり日本近海でも目撃されています。

元々玳瑁の肉は地元住民の貴重なタンパク源として食用として捕獲され、残された甲羅はべっ甲という外貨獲得の要でした。当時キューバは日本との取引だけでも年間2億円の収入があったと言われています。

べっ甲は、やや黄色みがかった透き通る「白べっ甲」、黒光りする「黒べっ甲」、そしてそれらが交じり合いまだら模様となった「茨布(ばらふ)べっ甲」の3つに分けられます。中でも白べっ甲は甲羅全体のわずか10%程度と大変貴重なことから特に珍重されています。

べっ甲は天然素材故、材料の厚みも1㎝以上あるものから1㎜程度のものまで様々。製品化する上である程度の厚みを作るため、べっ甲の膠(にかわ)の性質を用いて、「水」と「熱」により何層にも重ね合わせ成形していきます。

そのため、万が一破損しても再び「水」と「熱」により継ぎ直すことが可能。さらに経年による小傷や曇りも、磨けばほぼ半永久的にべっ甲本来の美しい輝きが蘇ることからまさに一生もの。また、べっ甲の製造過程では一切の科学物質を使用せず、最後は土に帰ることから、ある意味地球にやさしいエコロジカルな素材ともいえます。

 

べっ甲の歴史

べっ甲が最初に日本に伝わったのは、604年の飛鳥時代、中国からもたらされたという装飾の一部にべっ甲を用いた「玳瑁の杖(たいまいのつえ)」や「螺鈿紫檀五弦琵琶(らでんしたんごげんびわ)」などが、奈良の東大寺正倉院に収蔵。また、903 年の平安時代に伝わったとされる、象牙の櫛にべっ甲の装飾を施した「玳瑁装牙櫛(たいまいそうげのくし)」が、大阪府の道明寺天満宮に国宝として収蔵されています。

安土桃山時代にべっ甲材料と基礎的な製造技術がシルクロードを経て長崎に伝わりました。よって、日本におけるべっ甲の発祥の地は長崎になります。

江戸時代に入り、べっ甲は次第に装飾品としてもてはやされ、日本独自の高度な加工技術が次々と生み出されていきました。当時、長崎では日本を訪れる外国人たちへ土産品として、べっ甲を用いた装飾品や調度品が大いに珍重されたと言います。

江戸中期になると、江戸でもべっ甲は女性のかんざしなどの装身具として大いに流行し、次第に長崎からべっ甲職人が移り住み、長崎べっ甲の技術が江戸にも伝えられ、櫛やかんざしなどの製作が盛んになり、より複雑な造形が出来るようになっていきました。これが現代の江戸べっ甲の元になったと言われています。

 

ところで、べっ甲はなぜ玳瑁(タイマイ)と書かず、鼈甲(べっこう)と書くのでしょうか。亀は鶴とともに長寿のしるしとしてめでたいものとされ、美しいべっ甲かんざしや櫛などが各地の大名に愛用されていました。しかし、江戸時代に幾度となく襲った飢饉(ききん)に際し、幕府は高価なべっ甲は「奢侈禁止令(しゃしきんしれい)」による取締りの対象となりました。

その頃の逸話として、ある藩主が婚礼に際し「是非ともタイマイ製品は必要である」とし、幕府に対して「タイマイは唐より渡来した高価品であるが、わが日本内地の亀の甲で作る品は差し支えなきや」と苦肉の上申を行い、「鼈甲(すっぽんのこう)で作る品ならば一向に差し支えなし」と許可を得ました。以来、玳瑁の名称は鼈甲に改称されたと言われています。

江戸時代初期までは見かけなかった先端に耳かきの付いたかんざしも、耳かきを付けることで実用品として取締りから逃れる理由としたという説もあります。

 

近年のべっ甲
●1982年02月 「江戸べっ甲」が東京都の伝統工芸品に指定
●1992年12月 べっ甲の輸出入完全停止
●2015年06月 「江戸べっ甲」が国の伝統的工芸品に指定
●2017年01月 「長崎べっ甲」が国の伝統的工芸品に指定

 

最後に

縄文時代まで遡る日本の神秘的な伝統的装身具、かんざし。また、江戸時代から数百年以上の時を経て今日まで大切に伝承されてきたべっ甲。いずれも世界にも誇れる日本のかけがえのない宝です。失われつつある日本の伝統文化、工芸品をどうしたら後世へと残してゆくことが出来るのか。この20年あまり日々模索し続けています。

まだ答えは見つかりませんが、それでもこの10年あまり心掛けていることがあります。それは、その商品のストーリーを語ること。そのモノの価値をなるべく分かりやすく言語化し、SNSなどを駆使して一人でも多くの方へ発信していくこと。

その情報が「ホンモノを求める消費者」に辿り着き、ご興味を示してくださればお買い上げにも繋つながり、当然モノが売れれば「小売店」は喜び、そして何よりも「職人」へ新たなモノづくりを発注することができます。

まさに三方良しの Win, Win, Win の好循環が生み出されます。決して道は平たんではありませんが、まずは小売店の立場で出来ることをコツコツと日々精進しております。

 

(最後までお読みくださり、ありがとうございました。)

 

中央区文化・国際交流振興会だより№74・December 2020

 

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当初、銀座には弊館「銀座かなめ屋・かんざし和装小物展示館」の1館だけでしたが、一昨年3館が新たに開設され4館になりました。場所も銀座7丁目、8丁目と比較的みなご近所です。それぞれ個性豊かな展示館になりますので、銀ぶら序でにぜひお立ち寄りになってみてください。(それぞれに開館日時が異なりますのでご注意ください。)

《中央区まちかど展示館一覧》全29館(2021.01.現在)↓

https://www.chuoku-machikadotenjikan.jp/tenjikan/

 

銀座かなめ屋・かんざし和装小物展示館ホームページ》★↓

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▼銀座かなめ屋・かんざし和装小物展示館紹介動画★

 

▼銀座かなめ屋・かんざし和装小物展示館特集~こんにちは中央区です
(令和元年7月7日(日)~7月12日(金)放送)

 

 

※天然素材(べっ甲、象牙、珊瑚、真珠等)、貴金属(金、銀、プラチナ等)を用いた手作り品は、 製作時に使用する材料、また加工費などにより価格が変動する場合が御座います。また、ひとつひとつ大きさや形状、装飾などが若干変わる場合が御座います。予めご了承ください。

※べっ甲製品の場合、一見同じ様なお品物でも、使用されているべっ甲の品質や厚み等によって価格が大きく変動いたします。

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